過去に戻りたいという話

よく人はいう、「あの頃は良かった」と。

俺はそういう感情が浮かんでくることはなかった。ただ一つを除いて。

サークル活動はもう一度やりたかった、多分今後生きて来て自分達がトップで、自分たちの剥き出しの意見をぶつける機会などない。自分たちが1年間、いや3年間やってきたものの集大成をあれほどの規模で見せることはもう2度とないだろう。

言い忘れたが、俺は大学時代に文化祭の運営をしていた。規模こそそれほど大きくはないが、自分たちで作り上げる感は強かった。

今思うと凄い細かいところで戦ってたと思うし、今なら譲って進めた方が早いところがあるのも確かなのは分かる。大人になったんだ。でもあの時は戦ってた。

その頃と比べて今は目線が変わり状況も変わった。物事簡単じゃないことも多い。それでもあの時はなんでもできると思っていた。まあ今でもなんでもできるって思ってる節はあるけど。

今は見えているからこそ臨めることがあると思ってる。

ただ、この前の文化祭でその気持ちも断ち切られた気がする。昨年までは手伝いなどをして参加していたが今年からはそれも無くなった。だからこそ、今年文化祭を回って終わりの年が来たという実感が湧いた。おそらく来年はアメリカ留学をして文化祭に来ることもないだろう。再来年にもなれば自分が知っている後輩もほとんどいなくなる。冗談抜きに在校生は一桁になる。だからこそ子離れでもないがしなくてはいけないと思う。

だからこのブログを書いている時には過去に戻りたいという感情はもうない。未来に進む必要があるんだなと感じた。

 

PS 一個だけ過去に戻りたい理由を挙げるのなら、中学校の合唱コンで「hail holy queen」をやりたいということくらいだ。あれをやって皆の度肝抜いてやりたい気持ちはある。ただ、それ以外のことがめんどくさいので確実に過去には戻らない。

自分の持つdisabilityについて2

前に書いた話の続き。

 

最近困っているのは、屋台とかメニュー表がないようなお店で注文する時。指を刺すこともできないので、緊張度がまし、結果としてうまく喋れないケースが多い。

メニュー表を出してくれるようなお店なら指さしができるので気楽に注文できる。そうなった時に困るのが東京ディズニーなのである。

なんだあのパークは、メニュー表を提示しないで上に貼ってあるものだけで済まそうとする。

最近はテーブルレストランすらスマホで見るって、舐めてんのか。俺が注文するの大変だろ!!!!!!!!!(大声)

もう直ぐモバイルオーダーが導入されるとのことですが、そういうことじゃないんですよ。もうカード作って行ってやろうかなって思ってます。メニュー表出してくれませんか、ってかいたカード。

大きな問題点は「メニュー表を出してくれませんか」すら言えないってことなんですよね。ただ、この問題は日本語のみなんです、英語で言う時は普通に注文できるので。

これ理由としては、日本語だと「OOください」から入るからなんですけど、英語だと絶対定型分の「Can I have OO?」とか言うんで、それだと思うんですよね。固有名詞じゃないと最初喋りやすくて、スピードが乗ってくると喋れるんで

まあ、そう考えると俺の吃音ってエンジンがかかりにくい車みたいなもんなんだな?

確かに喋り続けている時に何か言えないってことはそうそうない。喋りはじめは言えないことが多いけど。そう考えるとどうにかなりそうな気がする。

どうにかしたいかもー。

別れ

今日、祖母が他界した。

今日といえども、今日の朝寄りの深夜に他界した。

知り合いが他界するのはこれで三度目で、一度目は父方の祖父、二度目は親友とも言える後輩であった。

祖父が元々具合が悪いということは知っていたが、高校受験がその直後に控えており最後の瞬間は会えず葬式等にも参加せず、話を聞くだけであった。

後輩は急死だったため連絡を受けて知った。とてもその瞬間に受け止め切れる話ではなくて、2年経った今でも引きずっている。

思えば祖母は2020年の12月から入退院を繰り返し、何度も余命宣告をされては生き延びていたのでこれまでのケースとは異なるものだった。

闘病生活の中で、面会に行くことはたまにあり、旅行に行ったらお土産をあげたりもしていた。

今年の6月中旬くらいはまだ比較的自由に喋れてはいたが次第に喋る量も減っていき、しまいには唸り声しか出せなくなっていた。

余命宣告をされているからそんなものだとは思っていたが、人はこうやって死に近づくんだなと実感をしてしまっていた。

余命宣告をされた時は毎回飛ぶ勢いで会いにいくのだが、一目見ると「まあ大丈夫だろう」と思えるような顔をしていた。具体的には目である。目が輝いて生きているのである。

今回も、亡くなる約半日前、13時程度に飛んで駆けつけた。

会う前では、まあまた同じパターンだろうと思っていたが、一目見ると目から輝きがなくなっていた。もう長くないだろうと気がついてしまった。

その時は、話しかけたり、目と目でアイコンタクトをしたりする中で、福岡に転勤中の兄を呼び戻すように母に伝えたりもした。

その後、16時ごろ、再度面会という形になり、何かを忘れるように買い物をした。お菓子などをだ。

その後、面会になり先ほどとあまり様子が変わらないようには見えた。弱ってはいたが今すぐ急変すると言った感じではなかった。

その後、兄と合流し19時からの面会をした。

16時の時とあまり変わらない様子だったが、兄と会えて嬉しそうであった。

私が最後に病室を出る時に、顔を近づけて目を大きく開けたら、顔を歪めた。それはまるで笑ったように思えた。

ここ数週間は笑ったように思えた時がなかったのでとても嬉しかった。

その時、一番大きい声で唸ってくれて嬉しかった。

その後、25時くらいに急変したと聞き急遽駆けつけた。

そこからはあっという間に時が経った。

次第に下がっていく心拍数、何もできることはできずにただ弱っていくのを見つめるだけ。

私は涙と鼻水でいっぱいになりながらも最後まで声をかけ続けた。

そしてその時を迎えた、心拍数が0になり、祖母は他界した。

0になった瞬間、叔母や従兄弟は涙した。

母親は祖母の顔をじっと見つめ、今までの思い出を自分で振り返っているようだった。

自分はというと、不思議とその瞬間に涙がひき、自分がしっかりしないとと感じていた。

それ以降私は皆の前では泣かずに、冷静に振る舞うことを心がけている。

母親や叔母はしなくちゃいけないことで自分の心を押し殺しているようで、それをみていて私が無理やり休ませたりしなくてはいけないと思っている。

祖母への思いは改めてまた今度記そうと思う。

最近の感情について

最近イライラしてもそれをすぐ外に出すと言うことをしなくなった。

イライラしても、一度落ち着いて「こいつがこう思ってるだけだ」と思って話すようにしてます。

そのようになってから後輩とかと話す時、俺はわりと事務的に物事を言うんですがそれによって後輩が怒りをあらわにする時があります。その時に「こいつ怒ってるな」ということが俯瞰的に見れるようになってきました。

あと、自分の責任にされたくないんだなと思ってるなとか。

例えば「あの言い方はないよね」って伝えると「いや、それは(俺)さんも悪くないですか」と言われることがある。その時に思うのは、その子は怒っていて自分のせいにされたくないんだな、ということである。

なので、「確かに俺も悪かった、皆で気をつけて行こう」と話して終わるようにしている。

自分が悪くなくても謝ることも大事であると最近学んだし、素直になれないお年頃なんだなと思って後輩を見つめている。

最近急激に自分が大人になってきてる気がする。次は後輩が怒らないような言い方が出来るようになりたい

大人になるということ

大人になるということは何なんだろう、セックスをすること?職につくこと?我慢を覚えるということ?

僕は、化粧水を使うことだと思う。

先日友達の家に泊まった時、友達が化粧水をつけていた、あの化粧水である。

そんな事への興味が全くないと思っていた人だったので驚いた。

もしかしたらこの世の男は化粧水をつける時代になったのか?そう思い急いでネット検索した。

その結果、現在の男は化粧水をつけるらしいし日焼け止めもつけるらしい。

このままでは男性も化粧をしなくてはいけない世の中になるのか、そのような危機感が走った。

そんなことを思いながらも、オールインワンという化粧水全ての要素が詰まっているというやつをAmazonでポチった。

効果が楽しみだ。

この世は人々の善の心で動いている

このタイトルを見た時に「いや、そんなことはない」と言う人は何人いるのだろうか。

そのような人たちはきっと「そんなに人は優しくない」「君は人生経験がないだけだ」と言うかもしれない。

そんな人たちに僕が言いたいのは一言「あなた、公共交通機関か公道のどちらかは使ってるじゃん」と。

皆が悪の心を持っているのであれば、確実に爆弾が仕掛けられて公道だろうが公共交通機関だろうが爆破される。

よく洋画などである街の至る所が火に包まれていて、悲鳴と警察のサイレンが無数の場所から聞こえてくるような地獄になるはずだと思う。

「ジョーカー」のラスト、と言ったほうがわかりやすいかもしれない。 あのようになっていない時点で割と善の心を持つ人は多いのだ。

先日、山手線の車両で刃物を振り回す男がいたというニュースがあった。 これは結局勘違いによるパニックによるものであったが、それが報道された瞬間、正確にはその前には勘違いであると言うことを自分は知らなかった。 友達との食事の待ち合わせのために新宿駅の改札を抜けた途端どこかのテレビ局の方が自分に「山手線乗ってましたか?刃物男で影響を受けましたか?」と言う問いをしてきた。 この時には何も知らなかったため、知らない、と答えてその場をさり特に気にもとめていなかった。

その後、友達と合流し信号を渡る時に「目の前の人が刃物で刺してきたら絶対逃げられないな」とふと思った。 こうとも思った、「いや、どちらかというと真後ろの人が刃物で刺してきたら死ぬな」と。 社会の大多数がこの発想に陥ったら、人混みを作るのはヤク中だけになる。 友達を作ることも、恋人を作ることも困難になる、だって次の瞬間刺してくるかもしれないのだから。

このように考える人が少ないのはひとえに「そんなことをする人はいない」と思っている人が社会の大多数だからである。 そんなことをしない「信用」があるから人は楽しく生きている。

その「信用」を取り去ることで社会は簡単に崩壊してしまうんだと思う。

よく漫画などで「人は疑心暗鬼で滅びる」と言うセリフがあるが初めて心から理解できた気がする。 「ジョーカー」のような大規模な問題がなくても、複数人がシリアルキラーのように知り合いかどうか関係なしに無差別に殺人をし、それを警察が止めることができなければこの社会は崩壊する。

誰を信じればいいのか、誰を信じてはいけないのか、その線引きができない社会は持続することは難しい。

自分がふつふつと思っていることについて

自分は普段から、「もしこうなったらどうする?」って考えている。 具体的には「OOに行った時に芸能人にあったらどうしよう」とか「これを受賞したらどうしよう」とかである。 大体この妄想は意味をなさない、叶ったことは一度もない。

おそらく妄想をするのが好きなだけで、かなって欲しいとはあんまり思っていないのだと思う。 いや、そんなことはない、かなったら確実に嬉しいことを妄想している。 世間ではこれを「中二病」と呼ぶに違いない。 空を飛んだり悪党を倒す妄想もするが、これはどちらかというと自分ではなく物語を考えている感じだ。 自分を投影はしていない。 自分がかなって欲しいなと思うことを思うだけ思って、努力が少ないから「中二病」なんじゃないかと思う。

思えば自分は成功してきた人生ではない、なんとなく周りからできるように見られているが成功の経験はかなり少ない。 自分が熱中できることを頑張っても、大体うまくいかない。 これは捉えようによるのかもしれないと、最近は思えてきた。 自分が失敗だと思うことでも、周りから見たら成功かもしれない。 例えばゲームをしていてこの戦闘orミニゲームは何点です、評価は何です、と出ることがある。 おそらく自分の成功のラインが点数制で言うと満点、評価で言うとSSSくらいなんだと思う。 他の人はこれをクリアできる程度の、評価で言うとCとかでも成功って思っている節はある。

理想が高い、ってだけかもしれないし、もしくは「自分はもっとできるんだ」ってことかもしれない。 多分前者で、他の人の最もできること、得意なことを見て「これくらいできないと成功じゃない」って思っている節はある。

もちろん得意なことが人によって違うことは理解しているし、周りの人が苦手なことをやって失敗しても「苦手なことだしな」と思える。 ただ、自分はそれが許せないんだと思う。

言語化して分かった、自分は自分の失敗を許せないんだ。 他人の失敗は許せるが、自分の失敗は許せない。 だから自分が失敗した時に最も感情が揺さぶられる。 何年か経って、自分が失敗することを許せる日が来るといいな。

また一つ文章を書いて良かった。